水産試験場

そもそもリッテルボヤとはなんぞや?北隆館の「新日本動物図鑑」をみると、和名:りってるぼや、学名:Halocynthia hilgendorfi f. ritteri(Oka)とあり、凡例の表示には学名は属名・種名・亜種名をイタリック体で、命名者を括弧書きで示しているとありました(表現は凡例に忠実に記載せず、判りやすいように記述を換えています)。へえー、命名者はリッテルではなかったの…それにしても、”Oka”って誰?と新たな疑問が湧いてきました。
以前リッテルボヤの種苗生産研究にたずさわっていた増殖部の担当者の1人に尋ねると…名前の由来そのものの答えは得られませんでしたが、「ホヤ類における同胞種と種分化」(西川輝昭)という文献を紹介されました。その文献を読み進めていくと、ありました。その中に、イガボヤの分類学略史としてリッテルボヤの記述があったのです。
それは、「日本人初のホヤ類分類学者、丘浅次郎博士は、長軸棘が全身に密に分布する小樽産標本に対してH. igaboya Oka、入・出水管の先端に開く入・出水管孔の周囲にのみ限定される八戸と金華山産の標本にH. ritteri、そして、入・出水管の側面先端部にのみみられる相模湾産標本にH.oustoniをそれぞれ創設した(Oka,1906)」という記述と、「和名は、丘博士が「日本動物図鑑」(初版)(1927年、北隆館)で、H. igaboyaに”いがぼや”、H. ritteriに”りってるぼや”と付けた」との記述でした。
また、「この3新種記載の以前にTraustedt(1885)が入・出水管だけでなくその他の部分にも長軸棘が散在する函館標本に対してCynthia hilgendorfiという新種を設立していたが、丘は当初これと別種として一旦は3種を新種としたものの、後にC. hilgendorfiをH. ritteriと同一種とみなした」といったような記述もありました。そしてまた、「一方、Ritter(1907)は、北米北部海岸からH. okaiいうH. igaboya、(和名:いがぼや)と見紛う外見をもった種を記載した」という記述があり、どうもこの”リッテル”氏が名前の由来に関係がありそうだということがわかりました。しかし、そもそも、”リッテル”って誰なの?明治期に日本に招かれたリッテルさんとは同一人物なの?違うの?とまた新たな疑問が湧いてきました。 ここで、少し話は変わりますが、この文献のタイトルとなっている「ホヤ類における同胞種と種分化」にある「同胞種」と、そもそも「種」とは何かについて少し説明しておきます。当該文献によれば「種」とは「他から生殖的に隔離されている個体の集団である(子孫を残す上で遺伝的に独立しており、他の種と交雑していない集団)」とした上で、「同胞種」とは「生殖的に隔離されており、同所的に棲息するが、形態的にほとんど区別できない近縁な2種(あるいは近縁種の一群)」であるとのことで、要するに「似過ぎていて形態という基準では生殖的に隔離されているかどうか識別が難しい」種ということになり、同胞種は種分化のメカニズムを研究するのに好適な材料とされています。やや専門的になりましたが、ここではリッテルボヤの種分化を説明することが目的ではなく、アメリカと日本で形態学的に識別が難しいほど非常に似た種が棲息しているという事実を認識していただきたいために同胞種の話をさせていただきました。
さて、先ほどの疑問、“リッテル”って誰?に戻ります。文献に出てくるリッテル氏は、北米北部海岸のホヤを新種として報告していることから、どうもアメリカの生物学者でありそうなこと(この時点で明治期に先生として招かれたドイツ人ではなさそうだと判明)、当該報告が1907年であることから、その時点で少なくともある程度の年齢であることが推測されました。
そこで、インターネットで検索していきますと(すんなり検索できた訳ではないのですが、検索の過程については省略します)、スクリップス海洋研究所(SIO:Scripps Institution Oceanography)の創設者で初代所長のWilliam E.Ritter(ウイリアム E リッテル:写真)ではないかと推測しました。スクリップス海洋研究所については、同じ米国にあるウッズホール海洋研究所、ラモント・ドハティー地質学研究所と並ぶ世界屈指の海洋研究所とされています(恥ずかしながら、ウッズホール海洋研究所は「沈黙の春」の著者であるレイチェル・カーソンが奉職した研究所として承知していましたが、スクリップス海洋研究所は名前を聞いたことがある程度、ドハティー地質学研究所にいたっては名前すら知りませんでした)。同研究所は、1903年に設立されたサン・ディエゴ海洋生物学会(MBA:Marine Biological Association of San Diego)が前身(1912年にSIBR:Scripps Institution for Biological Researchと呼称)とされており、リッテルはMBAの設立当初から20年間所長を務めており、1891年頃にカリフォルニア大学(バークレー校)の生物学教官になって間もない同氏がカリフォルニア州沿岸の太平洋で生物調査を始め、それが1903年の南カリフォルニア沿岸の生物・水理学調査の遂行等を目的としたMBA設立の契機になったとされています。
※研究所の名前は、スクリップス海洋研究所(MBA1903〜1911・SIBR1912〜1923・SIO1924〜)の支援者で、資金提供者であり、同研究所の発展に多大な貢献をしたスクリップス家の名前を冠したものです。


William E.Ritter(ウイリアム E リッテル)

SIOの初期の研究では、近海の海生動植物の分類、分布や環境との関係が主題であったとのことで、その集大成として南カリフォルニアの海洋生物便覧というべき“Sea Shore Animals of the Pacific”(Johnson and Snoox,1927)がまとめられており、近海の海生動植物の分類等の研究の一つとして、リッテルは、1907年に日本の“いがぼや(H.igaboya)”に外見的によく似たほやを学名でH.okaiとして報告したものと思われます。そして、この“H.okai”のokaは日本のホヤ研究者、丘浅次郎博士の“丘”だと思われます。つまり、ホヤ研究の世界的な交流の中で、学術的な情報が交換され、互いの研究に対する学問的評価と敬意の証として、同胞種とも言えるほど外見的に類似性の高い太平洋を挟んだ2つのホヤに対して、日本の種には丘博士が米国の研究者の名前を冠して学名をH.ritteri(1906)、標準和名をリッテルボヤ(1927)と名付け、米国の種には当時の日本のホヤ研究の第一人者である丘博士の名前を冠して学名をH.okai(1907)と名付けたものと推測されました。
※学名の種名に人名をつける場合は、人名の部分はそのままで、男性の場合は“〜i”、女性は“〜ae”という語尾を付けます。
このように、“リッテル”はアメリカの生物学者の名前ということになりますが、その命名の由来には、太平洋を挟んで、日米にまたがる研究者同士のドラマがあり、その命名の過程に対して非常に興味をそそられるものがあります。
以上が私の推測を交えての結論ですが、何か新たな情 報があればご教示いただければと思います。

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